『想定外の王さまが来る』

今日は、王なる神として主イエスが来られるという聖書箇所を聞きしました。主イエスは、私たちの王として来られます。東から来た博士たちは、ユダヤ人の王として生まれる方をお祝いしに来ました。それを聞いて、ヘロデ王とエルサレムの人々は不安になりました。ヘロデ王が不安になるのはわかります。自分の地位が脅かされるからです。エルサレムの人々は、ヘロデ王(ローマ)の支配から解放を求めていたのではないでしょうか。一見不思議なように見えて、自分にあてはめて考えてみると、よくわかります。この時代からの解放を求めてはいても、現実の生活が変化することには不安を覚えるからです。主が再び来られるのを待ち望んでいても、明日、主イエスが盗人のように思いがけない時にやってこられたら(マタイ2444節)、対応できずに困ってしまうからです。宿題はやってない、部屋は片付いていない。主イエス様をお迎えする準備などできていないからです。エルサレムの人々も同じだったと思われます。イスラエルの解放を待ち望んではいても、現実の生活が変化することには不安があったのでしょう。ローマの支配は嫌だけれども、そこになにがしかの安心を見出していたので、新しい王が生まれたと聞いて、ヘロデ王と同じように不安になったのでしょう。

神さまは、私たちを「最善」に導いてくださいます。「最善」に至るための障壁を、時には破壊されます。少なくとも私たちには変化が起こります。私たちは変化を恐れているので、新しい王が生まれると聞くと、ヘロデ王と一緒に不安に思うのでしょう。

主イエスが、私たちの思い描くような王でなかったことは、はっきりしています。宮殿に生まれるのではなく、家畜小屋に生まれました。祝いに来たのは、野宿(ホームレス)していた羊飼い、ユダヤ人からは人とみられていなかった異邦人の博士たちです。主イエスは、病人を癒やし、力ある奇跡を行ったので、人々から新しい王だと期待されましたが、祭司長・律法学者たちによって、ローマの手に渡されて政治犯として十字架の刑罰を受けました。

神さまは、どのような王として主イエスをこの世界に送ったのか、旧約聖書に書かれてあります。イスラエルの長老たちが「ほかの国々のように王がほしい」と願ったところ、そのような王を求めることは、サムエルの目にも、神の目にも悪いことでした(サムエル記上8章)。長老たちが王を求めることは、神さまが王として君臨することを退けたことです。神さまは、王を介して人々を治めたかったのではなく、一人ひとりと直接対話することを求めておられます。そして、ご自分のように、一人ひとりと魂の奥深くで対話する王として、主イエス様をこの世に送られました。

ひとりのみどりごが

わたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子が

わたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は「驚くべき指導者、力ある神

 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

(イザヤ書9章5)  

あなたが、主イエスをお迎えしたい暗闇はどこですか。思いもよらない所に、救いはすでにもたらされています。

助けを求めましょう。救いを求めましょう。平和を求めましょう。

あなたに変化が訪れます。

恐れを乗り越えて、・・・小さなところから世界が変わります。