『聖霊がすべてのことを教える』
父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
ヨハネによる福音書14章26節
左写真は、「釜石版 青の洞窟」
シーカヤックで行けます。神秘的な空間です。
遠野のこども園では「車ショー」というのが予定されていたらしいですが、雨で延期になりました。子どもたちも残念だったと思いますが、見方を変えると、スポーツカーを子どもたちに見せたかった大人たちのほうが残念だったかもしれませんね。自分たちの大好きなスポーツカーの素晴らしさを子どもたちに、見せつけてやりたかったに違いありません。子どもたちは、本で読んで、テレビで見て、今どきは動画を見て、「かっこいい車」として知ってるつもりになっています。その子どもたちに、本物のスポーツカーを間近に見せて、座席に座る体験させられなかった大人たち、残念だったでしょうね。
19世紀デンマークの哲学者キェルケゴールは、このように言いました。「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ。」スポーツカーショーを企画した方々にとっては、スポーツカーのために生き、そのために死にたいというものなのでしょうか。そこまで言ってしまっては極端でしょうか。
そこまでではないにしても、誰にでも大切にしたいものがあります。喜んだり悲しんだり感情が揺さぶられるものがあります。そのために人よりも時間、労力、お金を注ぐものがあります。それを大切にしたいものです。
5月には聖霊降臨(ペンテコステ)をお祝いしました。聖霊は、目に見えるイエスが昇天していなくなってしまった後、弟子たちが一つになって祈っているところにやってきたものです。
聖霊について、ヨハネ福音書ではイエスが十字架にかかる直前に話された最後の話(「別れの説教」ヨハネ14~16章)で、語られています。聖霊は、弁護者・慰め主としてイエスがいなくなった後に遣わされ、永遠にわたしたちと一緒にいます。聖霊は真理の霊です(14章16,17節)。聖霊は、わたしたちが孤独でないことを教えてくれます。イエスが父の中にいて、わたしたちがイエスの中にいて、さらにわたしたちの中にイエスがいることを教えてくれます(20節)。
聖霊がいなければわからないことも、聖霊がいることでわかるようになります。それは、誰にでもわかる論理で頭で理解するものではありません。心で、またもっと深く腹の底にまで落とし込むことです。孤独な時に孤独ではないこと。病気のようでいて病気ではないこと。死んだような者でありながら実は生きていること。
キェルケゴールが言ったのは、誰から見ても正しい客観的な事実ではなく、自分がそのために生き、そのために死ぬことができるようなことを追い求めたいと願ったのです。誰から見ても正しいわけではないので、自分で真理かどうかを見極めなくてはなりません。それを、「主体的真理」といいます。自分がそれのために生きていると思えるもの、自分がそれのためだったら死んでも構わないと思えるもの。そういったものに出会える人は幸いです。
私が出たミュージカルを作曲してくれた山崎さんという釜石在住の音楽家がいます。山崎さんは、ミュージカルの本番を終えるたびに入院騒ぎをしています。私が「先生、あまり頑張りすぎると死にますよ。ほどほどにしましょうよ。」と言うと、彼は「これで死ねるなら本望だ」と言ってのけました。それを聞いて私は返す言葉がありませんでした。山崎さんにとっては、このミュージカルが、「そのためにだったら死ねる」ものなのでしょう。
わたしたちにとっては、何が「そのために生き、そのために死ねる」ものでしょうか。それを見つけられる人は幸いです。それを教えてくれるのは聖なる霊です。何があなたを喜ばせますか。何があなたを悲しませますか。何があなたの感情を揺さぶりますか。聖霊が感情を揺さぶることに、今より少しだけでも敏感になってみませんか。
イエスとその弟子たちが伝えた、神の国、天国、神の愛は、まさに「そのために死ねるもの」です。実際に命を懸けてそのために死んでいった弟子たちがたくさんいます。その後、2千年の間伝わってきた神の国、天国ですが、本で読んで、説教を聞いて、わかった気になっても、実はその本当の素晴らしさは、私自身まだまだ理解していないのだと思いました。インド発祥の、「群盲象を評す」という寓話があります。目が見えない人たちが象に触れる話です。象の足を触った人は「柱のようだ」と言います。しっぽを触った人は「綱のようです」と言います。鼻を触った人は「木の枝のようです」、耳を触った盲人は「扇のようです」と答えます。牙を触った盲人は「槍のようです」と言います。みんな部分を見て正しいことを言っています。でも全体像を見ていないので、話は食い違います。象は、それぞれの人の言う特徴を、全て備えているのです。(これはあくまでも寓話です。視力がなくても象の大きさを感じることはできます。見える人にはないスーパーパワーを、目が不自由な人が持っていることを侮ってはいけません。)
わたしたちは、神さまからの最高の贈り物について、一部分しか知りません。一部分だけでも知り得たことを分かち合いたいと思いますし、他の人が違う部分を見ていることを尊重したいと思います。わたしたちには、まだまだ知らないことがたくさんあるのですから。だから世界は素晴らしいのです。